2021/05/30
石の巡礼 その32(庚申塔8 百庚申)
今回は庚申塔を百祀った百庚申の話です。
百庚申にも色々な形式があり、一つの石に庚申の文字を百彫ったものや、青面金剛を百彫ったもの、文字の庚申塔を百祀ったもの、青面金剛を彫った庚申塔を百祀ったものなどがあります。
また文字庚申塔と青面金剛庚申塔を合わせて百祀ったものもあります。
この背景には西国(三十三か所)・坂東(三十三か所)・秩父(三十四か所)の百観音の巡拝などがあります。
昔はこれらの観音霊場を回ることは金銭的にも肉体的にもほとんど不可能でした。
そこでお寺などに百基の観音を造立して参拝することによって百観音を巡拝したのと同じ功徳が得られると考えました。
百庚申も同じことで多くの塔を造立することにより、より多くの功徳を得たいという人々の気持ちの表れです。
この百庚申は信州、北関東、房総で幕末に流行しました。
一般には文字庚申塔が斜面にアトランダムに祀られたものが多いいのですが、房総では文字と青面金剛を彫ったものが平地に規則正しく祀られています。
今回は千葉県の百庚申を見ていきます。
千葉の百庚申は基本的に青面金剛の像塔が10基、文字等が90基で構成されていますが、継時的に失われてしまった塔が沢山有ります。
配列は文字九基おきに像塔一基を配置します。
まずは匝瑳市大浦路傍 にある百庚申を見てみます。
中心に1738年の笠付角柱型の青面金剛、周りに地元の飯岡石に庚申の銘を彫ったものを多数隙間なく立てています。
船橋市前原5丁目の百庚申は1733年などの青面金剛塔3基と文字塔2基の前に駒形の文字塔70基が前後4列に並べられています。
印西市笠神の笠神社の百庚申は青面金剛像塔 17基、庚申塔銘文字塔78基、計95基が並べられ、破損した像塔1基と文字塔 4基が後ろにあり、百庚申になります。
1865〜7の3年間に造立され、像塔1基と文字塔4基の並び方です。
すぐそばに蘇羽鷹神社が有り、境内に百庚申が祀られていたそうですが、私が行った時は工事中のようで数十基が並んでいるだけでした。
圧巻は印西市松虫の庚申塔で1829年の造立で100基全てが青面金剛の像塔です。
残念なことに都市計画で松虫寺付近の路傍2カ所に分けて移動されています。
誠に残念です。
印西市武西の百庚申は公園の中にきれいに整備されて横一列に建てられています。
1863年の造立で像塔10基、文字塔90基で構成されています。
印西市浦部の百庚申も像塔10基、文字塔90基で道路脇に一列に並んで建てられています。
ここの特徴は塔が赤く(ベンガラ)塗られていることですが、理由はわかっていません。
1839年の造立です。
鎌ケ谷市大仏の八幡神社の百庚申も像塔10基、文字塔90基で参道に並んでいます。
1841年から1842年の造立です。
柏市手賀路傍の百庚申は道路に面した林の中にあります。
1824年と1875年の造立で像塔9基 文字塔94基からなります。
銚子市の高神町の都波岐神社は高台にあります。
正確には百庚申ではないかもしれませんが階段の参道や狭い境内には200あまりの像塔、文字塔がぎっしり所狭しと置かれています。
百庚申みたいに統一性がなく、庚申の日などに人々が持ち込んだのかもしれません。
それに比べると印旛郡栄町安色の百庚申は階段の下や途中に規則正しく並べられています。
階段の上の覆屋には3基の青面金剛の像塔が祀られています。
1866年の造立です。
柏市の布施下の大師堂の百庚申は3段になっており、最上部に青面金剛塔が祀られそのほかの段は文字塔で囲まれています。
千葉県の百庚申塔に用いられている石の素材は、もろい軟質の素材で壊れやすく、自然災害で崩壊紛失したり、道路拡張や市街地化により移転 させられたり、百庚申の状況は良くありません。
地域の文化財としてその姿と意義が 後世に伝えられていくように願うばかりです。
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