2018/08/25
気になる話 その11(河口慧海)

1988年8月にチベット行きが決まったその半年前、河口慧海の「チベット旅行記」にめぐり合いました。
カンボジアへ行けない私の興味はチベットに移り、チベットに関連する書籍を探している時に見つけました。
英訳もされ世界で一番優れた旅行記と世界的に評価されていました。
明治37年に出版された旅行記が役に立つのかと疑問を持ちつつ読み始めましたら、もう止まりません。
文庫本5冊一気に読んでしまいました。
そして慧海フリークになってしまいました。
いまでもこれ以上面白いノンフィクションはありません。

慧海は黄檗宗の僧侶ですが漢訳の仏典の正確さに疑問を抱き、チベット語原典の研究を志してチベットへ向かいます。
『明治30年6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへいきダージリンのチベット学校で1年間チベット語と風俗をまなぶ。

当時鎖国状態のチベット入国は非常に困難で中国人としてネパールから入国することにする。
ネパールのツァーラン村に滞在し1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。
新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。
村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。

同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。
白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。

チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。
たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。
次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる。
ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。
1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。
親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。

通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
1903年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。』
以上が概要ですが慧海の類まれな文書力、死が迫っているのに淡々と状況を認識する洞察力、信じられない行動力でグイグイ読者を惹きつけます。
その根底には深く仏教に帰依している、自分は生かされているという信心だと思います。
そして素晴らしいのは自然の描写だけではなく、人々が暮らす村々の習慣、風俗などを細かく書き綴っていることです。
これが貴重な資料となりました。
さらに、なんと挿絵も自分で描いているのです。
この挿絵が味があり、まるで慧海と一緒に旅している感覚になります。
ラサで慧海の素性がバレそうになる件はハラハラドキドキです。

私が好きなのは、ネパールのドルポからクンラを抜けマナサロワール湖から、カイラスを巡礼するところです。
まだカイラス巡礼が日本では一般的ではなくカイラスに関する資料が全くありませんでした。
カイラスというのはインドでの呼び名でシヴァが住む聖なる山です。
したがってインド側からヒンドゥー教徒が巡礼した話はありました。
私の頭の中はカイラス巡礼で一杯になりました。
そしていよいよ10日間のチベット旅行です。
結果はラサ1日目、高山病でダウン。
詳しくは巡礼記03チベットを読んでくれろ。
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