FC2ブログ

石の巡礼 その23(常総の大日如来石仏)

AA1_0298のコピー
茨城県の南部にはとても変わった大日如来の石仏があります。
下妻・土浦・龍ヶ崎・常総あたりに分布し、全てが寛永期(1660年代)に彫られました。
この大日如来石仏はタイプの違う3種類に分けられます。
一つは胎蔵界大日如来で窪んだ両目と大きい鼻が特徴です。
もう一つは金剛界大日如来で鼻が高く立派に刻まれますが目や口は小さいのが特徴です。
三つ目は三尊形式で中央に天蓋と宝冠を戴く金剛界大日如来が蓮華座に座し、向かって左に火焔光に包まれた不動明王立像を、右に火焔光背を持つ三面六臂明王立像(降三世明王か)を彫刻する大日三尊です。
謎がいっぱいで特に胎蔵界大日石仏は全て法界定印の胎蔵界大日如来を刻み、大きな鼻と蓮華座、さらに蓮華座の下の三角紋様は全てに共通で全て一人の作者が彫ったように思われるほどよく似ています。
1つくば市西岡研修センター(胎蔵) 1−2つくば市島名686―1 入坪公民館
上部に線彫りの天蓋をつけ、左右に日輪・月輪を刻みます。
寛永2年(1625年)から8年に集中して作られ、9年以降は見つかっていません。
プリミティブで稚拙ですが、とても魅力的です。
とてもプロの石工が作ったとは思われず、銘の中に「湯殿山」の文字が見えるところから、湯殿山系の修験者が彫った可能性が高いと思われます。
大日如来石仏の中ではこの胎蔵界大日如来が約8割を占めます。
金剛界大日如来石仏はもっと複雑で水芭蕉の様な光背がつけられ、着衣は修験者のようで、右手上の智拳印、足は組んでいます。
2つくば市百家 観音寺(金剛) 2−2つくば市大曽根 根本運送裏
顔は鼻が高く立派に刻まれるが目や口は大きくありません。
上部には日輪・月輪を刻みます。
制作は素人ではなく石工と思われます。
大日三尊石仏は約10年遅れて出現します。
中央に天蓋と宝冠を戴く金剛界大日如来が智拳印を結び蓮華座に座し、向かって左側に火焔光に包まれた不動明王、右に火焔後輩を持つ三面六臂の降三世明王が彫られています。
3常総市本石下(三尊)のコピー 3−2つくば市上菅間(古宇田家)(三尊)
これらの像を見に行きますと、現在は宅地造成が盛んになり、焼失したり、移動させられています。
ある像はお寺に他の石像と共に祀られていたり、地区の集会所やセンターに保存されていたりします。
神社に祀られている像は下部を土に埋められ、場合によっては石や藁で龕を作り祀られています。
4つくば市吉瀬 鹿島神社 裏山(胎蔵)のコピー 5つくば市上広岡114番 八幡神社裏山のコピー
当時はどの様に祀られていたのかよくわかりません。
これらの像は大日塚と呼ばれる土が盛り上がった所から見つかる場合が多いのでこの塚の上に祀られていた可能性があります。
6牛久市島田町2116 大日塚(胎蔵) 6−26牛久市島田町2116 大日塚(胎蔵)のコピー
その時、龕を作り祀られていたかどうかはわかりません。
地域によっては「アナグラ様」と呼ばれ龕を作り、ほとんど埋められ、その上を簀の子で覆って祀っている場合もあります。
7つくば市平 鹿島神社(胎蔵)のコピー 7−27つくば市平 鹿島神社(胎蔵)のコピー
しかしこのような祀り方がいつまで続くか心配です。
像が綺麗にされていたり、供物が捧げられているのを見るとまだ安心です。
人がほとんど立ち入らない薄暗い神社の裏山で、まだ新しい竹で作られた「アナグラ様」を見つけた時やの嬉しさは格別です。
氏子さん達に感謝です。

ホームページ  www.ravana.jp


石の巡礼 その22(四十九院行道山浄因寺)

AA1_0298のコピー
前回は埼玉県寄居町にある普門寺の四十九院石仏のお話をしました。
今回はもう一ヶ所四十九院石仏が安置されている栃木県足利市にある浄因寺を訪れます。
普門寺は境内に一列に並べて安置されているので、見学は楽ですが、浄因寺は行道山という山の中腹にあり、さらに四十九院石仏は山の頂上近くにある奥の院に安置されているので、大変です。
浄因寺は行基の草創と言われ、山岳信仰の霊場として栄え関東の高野山と言われています。
この山は奇岩、怪岩が多くこの寺院を有名にしている清心亭は巨岩の上に立ち、そこへ渡るために巨石から巨石に架けられた空中橋『天高橋』は葛飾北斎が『足利行道山雲のかけ橋』として描いたものです。
1葛飾北斎
2浄因寺
麓の駐車場から長い階段を上り信者が寄進した石仏を見ながら山門を二つくぐると本堂、庫裏、清心亭に着きます。
3浄因寺
さらに本堂の横から急な階段を上るとやがて山道になり奥の院とハイキングコースに分かれます。
四十九院は巨岩の上に安置されています。
4浄因寺
そこからの展望は足利の町や周囲の山々が一望できます。
普門寺の時にお話ししましたが、四十九院は死者が弥勒菩薩の四十九院の兜率天に生まれ変わるように願って、墓所の回りに四十九院の塔婆を立てる風習が室町時代から行われていました。
この風習を受け継いで、江戸時代中頃に弥勒浄土の模倣として四十九院の本尊の建立が行われました。
現在保存されているのが普門寺と浄因寺の二箇所です。
浄因寺では巨岩の上に68体の石仏とそれを守護する四天王を配置して弥勒菩薩の住む兜率天の世界を再現したものだそうです。
建立は享保4年(1719年)です。
5浄因寺
しかし決められた配置になっているのかどうかも分かりませんし、石仏が固定されている訳ではないので、非常に不安定で倒れたり、崩れたりしている石仏がたくさんあります。
ちよっと触るともうグラグラです。
ここで一番有名なのが10番の常念常楽院の釈迦涅槃像いわゆる寝釈迦です。
19浄因寺
この像を見るためにはこの岩の上に登らなくては見えません。
特に道があるわけではなく、急な岩を勝手に登るのです。
その時周りの石仏に触るとすぐに倒れてしまうほど不安定なのです。
保存状態が良く、興味深い石仏を載せておきます。
院名・尊名は判りません。
6浄因寺
7浄因寺
8浄因寺
9浄因寺
10浄因寺
11浄因寺
12浄因寺
13浄因寺
14浄因寺
15浄因寺
16浄因寺
17浄因寺
18浄因寺
ここにたどり着くのは大変ですが、疲れた体に心地よい風とツツジの花が迎えてくれます。
なんとなくここに兜率天の世界を作った訳がわかるような気がしました。

ホームページ  www.ravana.jp

石の巡礼 その21(普門寺四十九院)

AA1_0297のコピー
先日埼玉県の寄居町へ鮎を食べに行ったついでに美里町にある普門寺を訪れました。
ここには四十九院石仏が安置されています。
4普門寺
四十九院とは兜率天(とそつてん)の内院にある四十九の宮殿のことで、兜率天は弥勒菩薩の住む弥勒浄土のことです。
この宮殿には本尊仏がいますから49体の本尊石仏が普門寺に並んで安置されています。
兜率天は釈迦が修行して如来となったところで、この世に生まれて人々を救済するために仏教を広めました。
<インドネシア ボロブドゥール 兜率天にいる釈迦>
1兜率天にいる釈迦
現在は釈迦の次に如来になるために弥勒菩薩が修行しています。
そして五十六億七千万年後にこの世に生まれる(下生する)、とお経に説かれています。
空海は入定後、兜率天に往生し、五十六億七千万年後に弥勒とともに下生すると遺言にあります。
そのため空海と一緒に修行して弥勒と一緒に下生するという考えが流行りました。
空海とともに兜率天に対する信仰が四十九院石仏となります。
兜率天に生まれ変われるように埋葬方法も流行しました。
死者を埋葬した場所を49の板塔婆で取り囲むのです。
もちろん一定のルールに従って行います。
身分の高い人は玉垣も塔婆も石で作ります。
高野山奥の院は弥勒浄土として人々の厚い信仰を集めています。
2高野山奥の院
奥の院にはとても立派な玉垣で囲まれた廟や供養塔がたくさんあります。
<奥の院 井伊直政御霊屋>
井伊直政御霊屋

聖徳太子も兜率天浄土へ往生されたと信じられています。
太子の亡き後に橘夫人は太子をしのんで「天寿国繍帳」(国宝)を作られましたが、それは兜率天の様子を編んだものと言われています。
<奈良 中宮寺 天寿国繍帳残闕>
3天寿国繍帳残闕2
普門寺境内にはコンクリートで作られた壇上の上に横一列で四十九院石仏が安置されています。
覚龍という僧侶により弥勒信仰が布教され、檀徒たちが先祖供養のために寄進し、元文4年に造立されたものと言われています。
16普門寺
本来四十九院の配列の順番は決まっていて、1番は恒説華厳院(毘盧遮那仏)から始まり、49番は常行律儀院 (釈迦牟尼如来)で終わります。
ここでは順番にはなっていません。
10番は常念常楽院で釈迦涅槃、
5第10番常念常楽院釈迦涅槃
第41は番唯学伝法院で藷経論蔵、
6第41番唯学伝法院藷経論蔵
第42番常念惣持院で不動明王、
7第42番常念惣持院不動明王
第44番は伴行衆生院で金剛力士(頭に被っている動物は興福寺の乾闥婆に似ている)、
8第44番伴行衆生院金剛力士
第22番説法利他院で釈迦説法(説法をしている釈迦)、
9第22番説法利他院釈迦説法
第24番金剛修法院で大日如来(金剛界大日如来で胸の前で智拳印を結んでいる)、
10第24番金剛修法院大日如来
第20番如来密蔵院で大日如来(胎蔵界大日如来で法界定印を結んでいる)、
11第20番如来密蔵院大日如来
第17番恒修菩薩院で善財童子(華厳経入法界品に登場する童子、仏教の修行にはげむ)、
12第17番恒修菩薩院善財童子
第4番般若不断院般若力菩薩(大般若経の本尊で6臂)、
13第4番般若不断院般若力菩薩
第27番求聞持蔵院阿難尊者(十大弟子)、
14第27番求聞持蔵院阿難尊者
第28番四大天王院梵天王(ブラフマーのことで4面)
15第28番四大天王院梵天王
などが目を惹きます。
四十九院石仏は珍しく、足利市の行動山とこの普門寺の2ケ所のみです。
今度は苦手な山登りを覚悟で行動山へ行ってみたいと思います。

ホームページ  www.ravana.jp



石の巡礼 その20(石塔寺三層石塔)

AA1_0296のコピー
前回の狛坂磨崖仏に続き、今回は同じ滋賀県琵琶湖の東近江市蒲生町にある石塔寺を訪れます。
阿育王山の額がかかっている山門を抜け赤松林の急な石段を息を切らせながら上りきると、そこに何万という五輪塔や石仏の中央に素晴らしい3層石塔が立っております。
石塔寺1
この石塔は日本の木造の塔とは全く違った、韓国のプヨでみた百済の石塔です。
三層石塔は、奈良時代前期の作とされ、三層石塔としては日本最古・最大のもので国指定の重要文化財です。
石塔寺2
前回お話ししたように、この土地は渡来人が住んでいました。
4〜5世紀には秦氏が居住しており、その後5世紀から6世紀にかけて高句麗に滅ぼされた百済の民がこぞって亡命してきます。
彼らは大陸の新しい技術を日本へもたらしました。
また諸博士、仏師など技術者を大和朝廷にさしだし、大和、河内、山背、摂津の畿内に次々と寺院が建立されました。
湖東地区は日本書紀によると669年、滅亡した百済から渡来人700余名を近江国蒲生野へ移住させたとの記述があり、湖東一帯に百済人の村があったと思われます。
当然石工達も住んでおり、故郷を懐かしんで石塔を建てたとしても不思議ではありません。
石塔寺3
しかし不思議なことにこの形の石塔はここに1塔あるだけなのです。
この後の石塔は形態の違う九層石塔や十三層石塔か木造になり現在まで続くのです。
この塔を建てた技術者がここにいるのに、この形の石塔は現れません。
日本人好みではなかったのでしょうか。
木造と違い火災の心配はないのです。
理由がわかりません。百済は現在のプヨ(扶余)でここには定林寺址が残り境内には定林寺址五層石塔が建っています。
典型的な百済型の石塔で7世紀に創建されました。
定林寺址五層石塔
しかしあまり石塔寺三層石塔には似ていません。
石塔寺三層石塔に似た石塔がプヨの長蝦里にあります。
長蝦里三層石塔はプロポーションが石塔寺三層石塔によく似ています。
長蝦里石塔
ここでまた疑問が生まれます。
石塔寺三層石塔は7世紀の創建と言われていますが長蝦里三層石塔は10〜12世紀の創建と言われているのです。
この時間のギャップをどうするか。
私にはわかりません。
しかしこの地にあった渡来人の集落は事実ですし、日本人がほとんど作らない石塔があることも事実です。
疑問は専門家に任せてあまり深く考えずに当時のロマンを楽しむのが最良の方法です。
以前プヨを訪れて普願寺址に行き驚きました。
<プヨ 普願寺址>
普願寺址
<飛鳥>
飛鳥
飛鳥ととてもよく似ているのです。
どちらも時間が止まった不思議な空間でした。

ホームページ  www.ravana.jp

石の巡礼 その19(狛坂磨崖仏)

AA1_0295のコピー
今回は滋賀県琵琶湖の南東にある金勝山の中腹の岩肌に刻まれた異国情緒漂う狛坂の磨崖仏です。
ここへ行くには2時間半のハイキングです。
色々な行き方がありますが今回は桐生キャンプ場の駐車場からスタートです。
車を止めて林道を歩き始めます。
少し歩くとオランダえん堤がありとても素晴らしいロケーションです。
狛坂磨崖仏1
渓流に沿って落ち葉の林道を進むと上を新名神高速道路が通るトンネルを抜けます。
だんだん登りがきつくなってきます。
小川のせせらぎと小鳥のさえずりが気持ちよいのはここまでで、突然道が細くなりさらに急になります。
すると木立がなくなり巨岩が至る所に出ている韓国の南山みたいなところを抜け、再び林の中をひたすら登ります。
狛坂磨崖仏2
韓国慶州の南山ほどキツくはありませんがもう登るのが嫌になった頃、突然林の中に石垣が現れます。
これが816年建立された狛坂寺の跡で石垣と礎石だけが残ります。
その少し開けた薄暗い中に巨石が見え、そこに写真で見た我が国屈指の如来三尊が鎮座しています。
狛坂磨崖仏3
登山の疲れが吹っ飛びます。
中尊は弥勒如来と言われており両側に菩薩立像、頭上には蓮華座上の如来三尊が2組、左右にも蓮華座に立つ菩薩像が彫られ、向かって左側の小岩に如来三尊が彫られています。
狛坂磨崖仏4
彫られた年代ははっきりしていませんが、平安時代初期の810年から824年ごろとの説が有力です。
奈良時代後期との見方もあります。今まで見てきた磨崖仏や石仏とは感じが明らかに違います。
韓国、特に慶州の磨崖仏によく似ています。実際、作者は像の作風から渡来人と考えられています。
狛坂磨崖仏5
おそらく新羅系の石工と思われます。4世紀末から5世紀の始めにかけて秦氏と漢氏が朝鮮半島から我が国に集団渡来しました。朝廷は秦氏に山背と近江、漢氏には大和と河内に居住を許しました。
秦氏は京都盆地を拓き、近江の湖東を開拓し、農耕、養蚕、機械などの文化を伝えました。
そして商業を営み、財産を蓄えていきます。一方漢氏は朝廷の中枢で活躍する政治家や武官を輩出して、権力の座を占めていきます。
5世紀末から6世紀にかけて高句麗に滅ぼされた百済の民がこぞって亡命してきます。
彼らは大陸の新しい技術を日本へもたらしました。
そして技術の分野に応じて鍛冶部、鞍部、陶部、錦部などの部民に編成され、古代国家の基準となる部民制を成立させるもととなりました。
また諸博士、仏師など技術者を大和朝廷にさしだし、大和、河内、山背、摂津の畿内に次々と寺院が建立されました。
7世紀の中頃には、百済、高句麗、新羅の人々が亡命してきます。
琵琶湖の南部、東部(湖南、湖東)にはこれら渡来人が多く住んでおり、当然優れた石工や彫刻師が工房を持っていたと思われます。
実際私が慶州の南山に登り、磨崖仏を見て回った時と、とても雰囲気が似ていると思いました。
<韓国慶州 南山の磨崖観音像>
狛坂磨崖仏6磨崖観音立像
また花崗岩の質もよく似ているそうです。
渡来系の人達が、故郷を思い、この地に磨崖仏を彫った可能性は十分考えられます。
<韓国慶州 南山の七仏庵石仏>
狛坂磨崖仏7七仏庵石仏
湖東・湖南の旅は何故かワクワクします。

ホームページ  www.ravana.jp