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MEMORIES 1971年夏

思い出表紙のコピー
僕は今、軽井沢の友人の別荘にいる。
Kと一緒にKの友人の別荘に泊まっている。
去年の冬に親しくなったKとはカフェ水野で待ち合わせをしてKの家に行く。
レコードを聴いたり、お互いに好きな本を読んだり、Kの母親のTと麻雀を良くやった。
当時は二人ともロレンス・ダレルの「アレキサンドリア・カルテット」に夢中だった。
Kの友達が色々なレコードを持って来て好きだ、嫌いだと議論しあうのも楽しかった。
ジミヘンの偉大さを教わる。
初めてのクラシックのコンサートにもTに連れて行ってもらった。
ウラディーミル・アッシュケナージのリサイタルで上野の文化会館へ行った。
あまり感激はしなかったが、ロビーで叔母が私とTが一緒にいたので驚いていたのが面白かった。
楽しかったのはTのレッスンをそっと見ることである。
ピアノ科の教授なので日本全国から中学生や高校生がレッスンを受けにくる。
Tのレッスンは煙草を吸いながらとても厳しい(Tはヘビースモーカーでポール・モールが放せない)。
時々寝てしまうこともあるが。
僕自身クラシックは聞かないがピアノの小作品がすきである。
ショパンやドビッシー、エリック・サティなど。
ある日Tにどんな作品が好きかと聞かれた。
僕はショパンのプレリュード第4番ホ短調が大好きですといったら、Tは楽譜を探して、僕のために弾いてくれた。
鳥肌が立つほど感激した。
Kは離婚した父親とよく食事に行った。
僕も何回か連れて行ってもらった。
飯倉の「キャンティ」、六本木の「香妃園」、赤坂の「シド」や「四季」などへ連れて行ってもらった。
そうこうするうちに夏休みになった。
カフェ水野へ通うようになって、水野さんと仲良くなり、カフェ水野は夏の間、軽井沢でも営業しているので、アルバイトで行くことになった。
Kの友達の別荘が軽井沢にあり、そこへ泊まってアルバイトする。
当時は関越自動車道などはなく、国道254をひたすら走り、碓氷峠を登っていく。
カフェ水野ではKは水野さんといるし、アルバイトの様なお客の様な微妙な立場である。
Kの友人の別荘は万平ホテルのそばにあり、十畳の部屋が3つつながってふすまを開けると一部屋になる。
男4人女人5人で泊まっている。
朝は僕がトースト、オムレツ、サラダの朝食を作る。
スーパーマーケットがあるので何でもそろう。
夕食は友達の1人が赤坂の中華料理店の息子で、やはり夏に軽井沢にお店を出すので、みんなで、そこへ行って中華三昧である。
夜はトランプや色々なゲームをする。
その中でメクラ鬼と言うゲームが大好きであった。
全てのふすまを開け一部屋にする。
鬼は部屋から出て外で3分待つ。
雨戸を閉めて全ての電気を消してみんな部屋の中に隠れる。
鬼が入って来て何も見えないので触って誰だかあてる。
あたった人が鬼になる。
たわいもないゲームだが少しエロティックで楽しい。
僕は1人で庭に出て高原の冷たいが、重くしっとりした空気を吸う。
星が沢山瞬いている。とても感傷的になり、今読んでいるヘッセの「荒野の狼」を思いうかべる。
星の間を流れ星が流れていった。

♥︎4


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MEMORIES 1971年春

思い出表紙のコピー2

僕の従姉妹と友人が2週間のアメリカ旅行から帰ってきた。
友人の格好を見て感激した。
なんとバックスキンのピラピラがついたジャケットである。
当時ヒッピーで流行っていたあの憧れのジャケットである。
イージーライダーでデニスホッパーが着ていたあのジャケットである。
友人の靴はモカシンである。
当時の最先端はヒッピーである。
ジーンズはもちろん裾が広がったベルボトムである。
ジーンズを求めてアメ横や青山の栄光へ行く。
しかしそのままでは履かない。
チロリアンテープやワッペンを付ける。
これらは霞町や赤坂、道玄坂にあったヒッピー御用達の店で購入。
チロリアンテープを求めてユザワヤにも行く。
ワッペンは麻の葉やスマイルマーク(スマイリーフェイス)などが定番である。
お尻のポケットに縫い付けるのが良い。
チロリアンテープは裾に使う人もいるが、余計足が短く見えるのでサイドに縫い付ける。
自分では出来ないので女の子の友人に頼む。
アクセサリーはネイティブアメリカンのインディアンものが流行りである。
鳥の羽根やトルコ石、シルバーなどが良い。
これらの指輪やネックレス、ブレスレットなどを身につける。
だんだんヒッピーに近づいてきた。
友人はアメリカからバックスキンのピラピラの付いた巾着型のショルダーバッグをお土産に買ってきてくれた。
ますますヒッピーに近づく。
友人はレコードも持ってきた。
当時ウエストコーストで一番新しい「It's a Beautiful Day」の、あの有名なジャケットのアルバムである。
そのほかGrateful Dead、Jefferson Airplane、Quicksilver Messenger Service、Steppenwolfなどのサイケデリックなアルバムを持ってきたが、皆が少し音に疲れてきたのでIt's a Beautiful Dayのような音が好まれているようだ。
しかし日本ではまだサイケデリックでヒッピーだ。
もちろん部屋にはフィルモアイーストのポスターは必至である。
そして甘く漂うインド香である。
坐禅やヨガの真似事もやってみる。
ヒッピーはベジタリアンで自然食品愛好家であるが、僕ら日本人のヒッピーは肉、肉、肉でなんでも食べる。
タイダイのTシャツかニコルのTシャツを着てチロリアンテープと麻の葉のワッペンをつけたベルボトムのジーズを履き、ピラピラの付いたショルダーバックにモカシンの靴を履いていざ出発。
行き先はもちろん日比谷野音のロックコンサートである。
出演者の友人がいるのでフリーパス。
楽屋に行ってひとしきり「It's a Beautiful Dayは良いよ」などと音楽談義をする。
ちょうどその時は都知事選挙前で美濃部さんと自民党の秦野前警視総監との一騎打ちであった。
なんとロックコンサートの出演者も観客も自分が支持するどちらかのバッジをつける。
ロック人間の間では社会・共産の推薦の美濃部さんが有利。
なんとものどかでおおらかな時代であった。
ヒッピーの女の子たちはスッピンでノーブラだ。
そして僕はヒッピーです。

♥︎1済

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MEMORIES 1966年秋

思い出表紙のコピー2
「ツモ 2000、4000」
ソントンが和了(アガリ)した。
ソントンは高校の同級生でぼくより2歳上の18歳だ。
ソントンはピーナッツバターのソントンのトレードマークに似ているから皆ながソントンと呼ぶ。
年下の僕がソントンと呼んでも怒らない。
ぼくの高校は留年生がとても多い。
オマケに中学でも留年させるので文部省から文句が出るぐらいである。
クラスメイトのⅠは、なんと弟と同級生になってしまった。
ひとクラス50人の中で10人は留年している。
他の2人は同じ年のクラスメイトだ。
僕ら3人はまだ覚えたてなのでいつもⅠやソントンのカモである。
僕らの高校では麻雀が流行っているので、入学するやいなや麻雀の本を買って、ルールや役を覚える。
「KENICHI、明日面白いところへ連れて行ってあげるよ」とソントンが言う。
「どこへ行くの」「赤坂で8時に」「了解」結局、麻雀はソントンの独り勝ちであった。
今、僕は地下鉄丸ノ内線の赤坂見附の改札口にいる。
同級生2人とソントンと待ち合わせだ。
赤坂には家族と一緒に来たことはある。
子供の頃ホテルニュージャパンの一階にあるお店でフルーツポンチを食べたことが鮮明に記憶に残っている。
その他チマキ寿司を買いに来たり、日本蕎麦を食べに来たことがある程度だ。
日大三高の近くにある天ぷら蕎麦はとても美味しかった。
赤坂は8時を過ぎているのにとても賑やかだ。
みんなでTBSの前にある「アマンド」でコーヒーを飲む。
店内はとても明るく満席に近い。
「これから行くところは外人がいっぱいいるゴーゴークラブだ」「金髪の女の子がゴーゴーを踊っているよ」とソントン。僕らは固唾を飲んで聞いていた。
ゴーゴークラブには行ったことがあった。
新宿の薄汚いところで少年少女のたまり場である。
ここは赤坂、大人の街でなんと金髪の外人である。
僕らはアドレナリンが出まくり、急にトイレに行きたくなった。
ソントンは平然とし、僕らを見て楽しんでいる。
そこはロシア料理「マノス」というレストランであった。
中は薄暗くテープル席があり、踊れるフロアーがあった。
言った通り、金髪のミニスカートの外人が檻の中で踊っているではないか!
フロアーでも外人が踊っている。
男はスーツにネクタイが多い。
ひねた少年1人とどう見ても普通の少年3人をよく入れてくれたと思う。
もしかするとソントンのことを知っていたのかもしれない。
僕たち3人はテーブルで固まっていた。
ソントンが無理やり僕らを引っ張り出し、フロアーで踊ったような記憶もある。
その後店を出てソントンの知っている近くのスナックへ行った。
僕らはカウンターに座り、ソントンが飲み物を頼んでくれた。
口当たりの良い「カカオフィズ」で甘くあまり強くないカクテルであるが、お酒が弱い僕はのどが渇いていたので一気に飲んでしまった。
当然意識が薄れ、ソファーで寝かされた。
少し気分が良くなったのでみんなが心配してくれたが、タクシーを拾って家に戻った。
また興奮が蘇ってきて、なかなか寝付けない。
今まで知らなかった世界を垣間見て少し大人になったような気がした。
ソントンがとても大人に見えた1966年秋。

♣︎4のコピー済み

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MEMORIES 1970冬

思い出表紙のコピー2
「KENちゃん、こっち」、僕は従姉に呼び出された。
場所は「六本木クローバー」、店内はほぼ満席だ。
昨日電話で友達のKが僕にお願いがあるので8時にクローバーへ来てくれと言う。
僕が従姉の前に座り、コーヒーを頼むと同時に、足首まである黒のマントに黒のタートルネック、黒のミニスカートのKが息を切らせて階段を上がってきた。
Kは15歳だ。
挨拶はするがちゃんと話したことはない。
「KENちゃん、お願いがあるの、人形を貸してもらえるかしら」とK。
昨日の従姉の電話は学校の美術の提出物が出来ていないので僕が以前、従姉に見せたスズキ・コージ風の人形を思いだし、Kのために貸してもらえないかというものであった。
この人形はコーラなどのビンに紙粘土を巻き付け造形して絵具で彩色をし、乾燥したらラッカーを塗って終了なので、とても簡単なため何体も作った。
主に個性的なジャズミュージシャンやロッカー達が題材になった。
「いいよ、今度家にきて選んで」と言ったところで従姉は待ち合わせがあるといって席を立った。
僕は年下の女の子と何を話してよいかわからず、日常会話をした。
わかったことは映画、本、音楽などの知識は相当なもので、僕らはすぐにうちとけた。
もっと話したかったが、Kが父親と待ち合わせをしているので、次の土曜日に目白の「カフェ水野」で合う約束をする。
「カフェ水野」はちょうど僕たちの家の中間にあり、高校時代からよく利用していた。
Kも仲間とよく行くらしい。
「カフェ水野」は目白のはずれ、田中角栄宅の前にあり、とても不便な場所にもかかわらず、日本女子大の学生、OG、遠くから来る常連さんで賑わう。
24時間営業なので夜中もにぎやかである。
ガラス張りの建物の1階にあり、2階は兄弟の服飾デザイナー正夫夫婦のアトリエである。
窓際の席が空いていたのでコーヒーを飲み、外を眺めていたらKがきた。
僕の家に行き、人形を選ぶ。
やはりスズキコージ風の魔女を選んだ。
僕の家は本郷でKは西落合。彼女の家まではちょっとしたドライブである。
車の中でいろいろ話しているうちにいろいろわかった。
Kの母親はT音楽大学のピアノ科の教授である。
偶然、私の母の親戚もT音楽大学のピアノ科の教授で、Kに聞いたら友人であった。
Kの家は瀟洒な住宅街の奥にあり、とても静かなところである。
古いがとても洒落た別荘風の建物で、すぐにKの母親Tが出てきた。
玄関のすぐ脇はTの仕事部屋で30畳位の広い部屋に、スタインウエイとヤマハのグランドピアノがおいてある。
ここでいろいろお話をした。
Tはヘビースモーカーで灰皿はポール・モールの吸い殻の山である。
Tと母親の親戚のMとはとても親しく仲が良いらしい。
Kの部屋は二階にありペントハウスになっていて、天井は屋根の傾斜そのままで低い。
古いがとてもすてきな造りで、入り口のドアーに「去年マリエンバードで」のポスターが貼ってある。
「どんな映画?」
「兄が貼ったのでよく知らないけど、とても難解みたい」
「タイトルがすてきだね」
「観てみたいわ」
Kはストーブをつけた。
屋根の傾斜に沿った窓からは冬枯れた庭が見える。
庭の所々にオブジェが配置されているのがわかる。
Kはピンクフロイドの「原子心母」をかけた。
僕たちはKの本棚にある本について語った。
Kはマンディアルグが大好きで兄の影響が強いと言っていた。
次にKはスリードックナイトの「It Ain't Easy」をかけた。
とても印象的な曲が入っていた。
「Your Song」エルトン・ジョンの曲であった。
Kの部屋はとても居心地がいい。
このままだと夜が明けてしまうのでTに挨拶してKと「カフェ水野」で会う事を約束して帰る。
とても素敵な予感がする。
空を見上げると星が沢山瞬いていた。

♣︎9

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MEMORIES 1969春

思い出表紙のコピー2

僕はダットサンフェアレディを運転して皇居前を走っている。
となりにPを乗せて。
やっとフェアレディをスムーズに走らせることが出来た。
ダブルクラッチを踏んで回転数を合わせないとスムーズにつながらない。
初めはとても苦労した。
しかし不安はそればかりではない。
僕の免許は軽免許なのだ。
16歳で取れる軽免許は360ccまでの車しか乗れない。
つまり無免許だ。
Pの顔を見る。
春風に髪をもてあそばれ、とても気持ち良さそう。
僕の不安は消し飛ぶ。
1週間前、従姉にソニービルの「カーディナル」に呼び出された。
従姉はロックバンドのボーカルとつき合っており、そこにいたPはリーダーと、Mはベースとつき合っていた。
僕がなんで呼ばれたかはわからないが、とても楽しかった。
従姉とMは何処かへ出かけ、僕とPは家の方向が同じなので一緒に帰る。
Pはとても魅力的で一緒に歩いているだけで嬉しい。
Pは茗荷谷のとても大きい家に家族と住んでいる。
良く解らないうちにPの部屋で今つき合っているリーダーの女性関係の話を聞いている。
Pは同じ大学の「ジャックス」の「空っぽの世界」を何十回もかける。
とても不思議な曲で洋楽しか聞かなかった僕にはとても新鮮だった。
しかし歌詞の内容が、とてもシュールで自殺や死後の世界を歌っている様な気がして、Pがとても悩んでいることがわかった。
僕はPと一緒にいたいので運転手になる。
学校が終わるとすぐにPの家に行く。
ある日、神宮前にあるブッテック「ドリアングレイ」に出来上がったスラックスを取りに行った。
とても不思議なお店で全体的に濃い紫のインテリアで宇野亜喜良さんの人形も置いてある。
店内を見ていると試着室からPが「似合う?」と出てきた。
僕は一瞬戸惑った。
Pが履いていたスラックスは何と裾が少し広がっている。
僕はソウルマンだ。
ズボンは細身でなくてはならない、が出てきた言葉は「すごく似合う」だ。
それから半年後にはパンタロンとなり大流行する。
よく原宿に行った。
「レオン」でコーヒーを飲み、「マドモアゼル・ノンノン」や靴屋の「ブティック・オオサキ」へ行く。
レオンはセントラルアパートの一階にあり、当時のスノッブのたまり場である。
広告関係、写真関係、ファッション関係の人達が集まる特に特徴のない喫茶店である。
セントラルアパートはすべての情報発信基地である。
荒牧太郎さんの「マドモアゼル・ノンノン」は当時一番流行っていたブティックで、レディスのお店だが男も女もマドモアゼル・ノンノンのロゴが入ったボーダーのT−シャツを着ていた。
車が日比谷を通るとPは「日劇の5階よ」と言った。
Pは姉の付き人を始めた。姉はシャンソン歌手で今、日劇のミュージックホールに出演している。
日劇ミュージックホールはトップレスのダンサーがレヴューをおこなう。
その幕間にコントをやったり、歌手が歌ったりする。
Pの姉は幕間にシャンソンを歌うのである。
姉は楽屋を一つもっておりPはそこで色々手伝う。
私はそこで何をするのかわからないが一緒について行く。
「お友達のKENちゃん」「はじめまして、よろしくお願いします」「どうぞ、そこに座って」僕は何をして良いかわからず5階の窓から有楽町を見ていた。
「お昼何食べる? アマンドの海老フライでいい?」じゃ電話して。
悪いはずがない。
アマンドの海老フライがこんなにおいしいとは思わなかった。
姉はステージのためお化粧を始め、Pが手伝う。
着替えのために僕は部屋から出る。
部屋の前の廊下は狭く、ここをトップレスのダンサーが行ったり来たりする。
僕は1人で緊張していた。
コントをやる矮人の人達も通る。
姉の出番だ。
舞台の裾から覗く。
姉は堂々として、歌がうまく、美しい。
歌の中に引き込まれる。
楽屋に戻り僕はお茶を入れた。
これから何回かステージがある。
居場所のない僕はPに後で迎えにくると行って銀座の町に出た。
銀座の空気がとても新鮮に感じた。
小さいころから来ている銀座の町がとても愛おしく思える。
4丁目を新橋方面に向かう。
銀座ヤマハへ行きピアフのレコードを買うために。

♥︎7済みのコピー


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