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気になる話 その11(河口慧海)

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1988年8月にチベット行きが決まったその半年前、河口慧海の「チベット旅行記」にめぐり合いました。
カンボジアへ行けない私の興味はチベットに移り、チベットに関連する書籍を探している時に見つけました。
英訳もされ世界で一番優れた旅行記と世界的に評価されていました。
明治37年に出版された旅行記が役に立つのかと疑問を持ちつつ読み始めましたら、もう止まりません。
文庫本5冊一気に読んでしまいました。
そして慧海フリークになってしまいました。
いまでもこれ以上面白いノンフィクションはありません。
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慧海は黄檗宗の僧侶ですが漢訳の仏典の正確さに疑問を抱き、チベット語原典の研究を志してチベットへ向かいます。
『明治30年6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへいきダージリンのチベット学校で1年間チベット語と風俗をまなぶ。
慧海3
当時鎖国状態のチベット入国は非常に困難で中国人としてネパールから入国することにする。
ネパールのツァーラン村に滞在し1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。
新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。
村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。
慧海4
同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。
白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。
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チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。
たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。
次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる。
ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。
1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。
親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。
慧海8
通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
1903年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。』
以上が概要ですが慧海の類まれな文書力、死が迫っているのに淡々と状況を認識する洞察力、信じられない行動力でグイグイ読者を惹きつけます。
その根底には深く仏教に帰依している、自分は生かされているという信心だと思います。
そして素晴らしいのは自然の描写だけではなく、人々が暮らす村々の習慣、風俗などを細かく書き綴っていることです。
これが貴重な資料となりました。
さらに、なんと挿絵も自分で描いているのです。
この挿絵が味があり、まるで慧海と一緒に旅している感覚になります。
ラサで慧海の素性がバレそうになる件はハラハラドキドキです。
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私が好きなのは、ネパールのドルポからクンラを抜けマナサロワール湖から、カイラスを巡礼するところです。
まだカイラス巡礼が日本では一般的ではなくカイラスに関する資料が全くありませんでした。
カイラスというのはインドでの呼び名でシヴァが住む聖なる山です。
したがってインド側からヒンドゥー教徒が巡礼した話はありました。
私の頭の中はカイラス巡礼で一杯になりました。
そしていよいよ10日間のチベット旅行です。
結果はラサ1日目、高山病でダウン。
詳しくは巡礼記03チベットを読んでくれろ。

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気になる話 その10(スウィンギングロンドン)

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ロンドンは1950年から1960年中頃まで、世界中の若者の発信基地でした。
中心はカーナビーストリートとチェルシーのキングスロードです。
                 カーナビーストリート
1カーナビーストリート2
                 キングスロード
2キングスロード2
主に2つのグループの勢力争いでもありました。
1つは「ロッカーズ」でロックンロールを愛し、リーゼントでオートバイに跨がっています。
かたや「モッズ」でR&Bを愛し、長髪でスクーターに乗っています。
「モッズ」の2大グループはイーストエンドの「スモール・フェイセス」、ウエストエンドの「ザ・フー」です。
                 スモール・フェイセス
3スモールフェイセズ
                  ザ・フー
 4フー
1963年にテレビで「レディ・ステディ・ゴー」が始まりモッズ全盛になります。
何もないカーナビーストリートがファッショナブルに生まれ変わったのは、「キング・オブ・カーナビーストリート」の異名を持つデザイナー、ジョン・スティーヴンによるところが最も大きいでしょう。
全盛期のカーナビーストリートで、自分の店を6店舗も所有し、若者文化全体を先導していました。
マリー・クワントが「バザールBAZAAR」と言うブティックからトゥイッギーを使ってミニスカートを発信しました。
                  トゥイッギー
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もう一人、重要なデザイナーは「ビバ(BIBA)」をオープンさせたバーバラ・フラニッキです。
オリエンタリズムやゴシック様式の要素を取り入れたスタイルで、若者の人気を得るようになります。
ヘアーデザイナーのヴィダル・サスーンは活動的で自立した女性にふさわしい「ボブ」を流行らせました。
この3人は新しい女性の美を追求しました。
                 クワントとサスーン
5クゥワントとサスーン
最先端の女性はボブヘアーにギンガムチェックのミニスカート、白のオーガンジー素材の襟がついたカッタウェイショルダーのトップス、そしてクレージュの白いブーツと言う出で立ちです。
写真家が注目されたのもこの頃です。
御三家はデイヴィッド・ベイリー、テレンス・ドノヴァン、ブライアン・ダフィーでモデルはジーン・シュリンプトン、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、マリアンヌ・フェイスフル、ジェーン・バーキン、トゥイッギー達です。
                 ジーン・シュリンプトン
7ジーン・シュリンプトン
                 パティ・ボイド
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映画では写真家のデイヴィッド・ベイリーをモデルにしたミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」、リチャード・レスターの「The Knack」、マイケル・ケインとジェーン・アッシャーの「アルフィ」、音楽映画「ポップ・ギア」などです。
                  The Knack
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スウィンギングロンドンの象徴となったのがユニオンジャックです。
それは愛国心ではなくそれ自体がとてもクールでかっこ良かったからです。
T−シャツや上着、ミニクーパーなどにも描かれていました。
もちろんまだミチコ・コシノもカンサイ・ヤマモトもいません。
当時のイギリスの香りを運んでくれたのは、ズズこと安井かずみと加賀まりこでした。
                  安井かずみ
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                  加賀まりこ
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そしてスパイダーズも早い段階で渡英しました。
何と言ってもミニタリールックです。
                  スパイダーズ
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日本のグループ・サウンズは全員ミニタリールックです。
なんて素敵な時代だったのでしょう。
パリでもなく、ニューヨークでもなく、東京でもなく、ロンドンなのです。
同じ様な郷愁を感じる場所は同じイギリスの植民地の香港とインドです。
60年代の香港とボンベイに行ってみたかった。
ロンドン、ロンドン、楽しいロンドン、みんなのロンドン
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気になる話 その9(岡倉天心)

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私が敬愛する日本人の1人が岡倉天心です。
「東洋の理想」の冒頭で述べられた「Asia is one」アジアは1つであるという言葉に触発され、私のアジア巡礼が始まったと言っても過言ではありません。
天心は大きな転換期の明治時代、すべての骨格を西欧を基準とした西欧至上主義の中で、日本及びアジアの行く末について憂い、独自の主張を世界に向けて発信しました。
しかし「Asia is one」と言う言葉は天心没後に日本軍部の大東亜共栄圏という植民地政策に利用され、違う方向に一人歩きしてしまいました。
とても哀しいことです。
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そして今、時代が天心を求めています。
福井の下級武士の父親は横浜に出て生糸を扱う商いを始めました。
何と父親はこの時代にあって英語の必要性を感じ英語塾に天心を通わせます。
東京外国語学校、東京大学卒業後文部省に勤務、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査します(1884年法隆寺夢殿を開扉し秘仏の救世観音をフェノロサとともに拝する)。
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文化財保護を痛感し、適切な対策を提案します。
フェノロサと欧米視察旅行後、1890年東京美術大学(芸大)の初代校長になります。
しかし排斥され辞職しますが日本美術院を谷中に発足させます。
1901年インド訪遊しタゴール、ヴィヴェーカーナンダ達と交流します。
タゴールは詩人で思想家でアジア人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞しました。
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インドでは非常に尊敬され生涯にわたって交友が続きました。
ヴィヴェーカーナンダは宗教家でラーマクリシュナの高弟であり西欧諸国の宗教、哲学を学び、ラーマクリシュナミッションを作りました。
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シカゴで行われた第1回世界宗教会議にヒンドゥー教代表として出席しました。
そして「すべての宗教は1つの真理に対する異なったアプローチである。それらは違いにより補い合う。1つの教義に真理は収まりきらない。多様な宗教の全体が真理である。」と演説し大成功をおさめ名声は広まりました。
ヴィヴェーカーナンダは親日家でインドの若者はイギリスではなく日本に留学した方が良いとまで言っています。
1904年天心はボストン美術館中国・日本美術部に迎えられます。
天心は英文による著作物「The Book of Tea(茶の本)」、「The Ideals of the East(東洋の理想)」、「The Awakening of Japan(日本の覚醒)」を出版します。
一方日本美術院を別荘があった茨城県五浦に移します。
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以後五浦とボストンを往復することになります。
1913年体調がすぐれず、アメリカから帰国した天心は静養のために行った新潟県赤倉温泉の山荘で永眠いたしました。
情熱家でもあった天心は1888年パトロンであった文部官僚の男爵九鬼隆一の妻、波津子と恋に落ちます。
当時波津子は隆一の子をみごもっていました。
また1912年ボストンに向かった天心は途中インドでタゴールの親戚の女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会い、恋に落ちます。
以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心が亡くなるまでの1年間交わされました。
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茨城県五浦の天心記念五浦美術館へ行くと2人の往復書簡を見ることができます。
とても風光明媚な所で、天心の家や墓,とても気に入っていた六角堂など見ながらの散策を御薦めします。
温泉もあり最後はアンコウ鍋で決まりです。
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気になる話 その8(那須高原 私の美術館)

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その美術館は那須高原にありました。
残念ながら平成29年12月31日をもって閉館しました。
名前は「那須高原 私の美術館」と言い芸術家此木三紅大(コノキミクオ)を総合的に紹介する個人美術館として、平成7年10月に誕生しました。
此木氏は、具象や抽象、絵画や立体というジャンルを超えて創作活動に励み、また若い芸術家集団の先頭に立ち指導の任にあたる一方、日本の美術を研究し続けています。
そんな類い稀なる多才な芸術作品に惹かれ、長年に渡り所有してきた数々の収集作品を一堂に展示公開しています。
コノキミクオの作品は絵画、版画、ガラス絵、ステンドグラス、ガンダ彫刻(使い古した鉄くず)などオブジェに至るまで幅広いジャンルにおいてその1つ1つに命を吹き込みます。
それでは入ってみましょう。
コノキ1
まず入り口ゲートの大きな蝶とバッタがお出迎えです。
すてきなチケット発売所で1000円を払います。
建物の前には素敵な外灯があります。
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建物の入り口がハイライトです。
巨大なフクロウとステンドグラス、下部は草や昆虫です。カブトムシやウサギもいます。
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側面に回ると出入り口がありそこにも素敵なステンドグラスの扉があります。
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扉の横には不思議な石像が置いてあり、中世ヨーロッパ的な顔立ちで蝶のネックレスにバッタがついています。
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中に入りましょう。すてきな絵画やガンダ彫刻が展示されています。
人魚の絵が気に入りました。コノキ5
ボッシュのような絵もあります。
コノキ8
とても細かいタロットのような絵もあります。
コノキ6
野原を描いた日本画もあります。
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館内の渡り廊下の上部にも素敵なステンドグラスを使ったオブジェがあります。
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中庭にも沢山のオブジェが展示されています。
私は色々な動物で出来た木のオブジェが好きです。
コノキ12
羽のついたタツノオトシゴのような訳のわからないオブジェが沢山ありますが、みんなとても可愛くて素敵です。
私はコノキミクオの作品が大好きです。
彫刻家として知ったのですが、絵画はもとよりガラス作品も素晴らしいと思います。
コノキ13
メルヘンチックでケルト風、シノア風、ジャポネ風、そしてまぎれもないミクオ風のコノキワールドです。
どんな小さなものにもミクオの精神が宿っています。
丸ごとコノキワールドの「那須高原 私の美術館」が亡くなってしまうのはとても寂しいことです。
千葉県にあるアトリエを公開して「松山庭園美術館」として氏の作品を展示しています。
ぜひ訪れたいと思います。
可愛い昆虫や動物たちがたくさんいるかな。

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気になる話 その7(三沢航空科学館・高橋みのる)

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先日、大学のOB会旅行で青森県八戸に行きました。
目的は温泉でしたが観光で三沢にある県立三沢航空科学館へ行きました。
個人では絶対行かない所ですが素晴らしい所でした。
アプローチの道路は整備され道路脇のポールに取り付けた飛行機のオブジェが楽しい道です。
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するととても広い敷地に近代的なガラスを多用した建物が現れます。
510円(団体410円)を払い入館するとミュージアムショップの前に素晴らしい高橋みのるさんの作品が展示されています。
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この話は後ほどにして先に進むと、まず展示されているのがミス・ビードル号の復元機です。
オレンジ色のとても美しい機体です。
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解説によると三沢・淋代海岸から離陸し、太平洋無着陸横断飛行に成功しました。
アメリカ・べランカ社製の単発5人乗りの旅客機の後部座席と機体底部を燃料タンクに改造して長距離飛行に備え、太平洋無着陸横断飛行に挑戦し約41時間後、ワシントン州ウェナッチバレーに胴体着陸して、太平洋無着陸横断飛行を成し遂げました。
正にこの科学館の顔です。
さらに進むと格納庫の様に沢山のプロペラ機が展示されています。
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国産機による初めての飛行に成功した奈良原式2号機、1915年に金木町出身の白戸栄之助が地方巡回飛行に使用した飛行機白戸式旭号、東京帝国大学航空研究所が、周回飛行距離の世界記録をめざして開発した航研機、初の国産実用機として国内線に就航したYS-11など飛行機の美しさがまったく飛行機に興味のなかった私にもわかりました。
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また体験施設として浮遊感と瞬間的な自由落下が体験できるプローブⅣ、重力を感じることの出来る回転板、セスナやヘリコプターのフライトシュミレーター、航空管制官の疑似体験など体験学習も出来ます。
私が行った時は特別展示でゼロ戦(本物)を見ました。
三沢6
野外展示ではF-104戦闘機、T-2、F1、F4EJ改ファントム,輸送機、ヘリコプターなど、触れたり、実際に乗り込むことが出来る機種もあります。
戦闘機は思ったより小さく、その機能美におどろきます。
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しかし私が一番感動したのは入り口のエントランスホールに展示してある高橋みのるさんの作品です。
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八戸で生まれた高橋さんは「木」と「メカニズム」と「遊び心」の三つの要素を組み合わせた動きの世界を「メカ木ズム」とネーミングし、からくり制作などをおこなっています。
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このホールには国内最大級の木製メカニカルモニュメント「からくり飛行船」(高さ4m、長さ4.5m、制作期間3年)があり、楽しいこと此の上ありません。
沢山のからくりが仕掛けてあり何時間でも見ていられます。
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木のぬくもりと人形の表情が何とも言えません。
ぜひ高橋さんの他の作品も見たいと思います。
三沢14
飛行機の魅力と高橋さんの作品に触れられたとても良い旅行でした。

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