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気になる話 その15 腹の虫(針聞書)

サンチ−2塔029
以前、新聞に九州国立博物館所蔵の「針聞書」のことが載っていました。
おそらく修理が終了したとか、そんなことだと思います。
そして「針聞書」の写真が載っていました。
その写真を見て愕然とし、頭から離れなくなりました。
すぐにアマゾンで調べましたら、2冊の本が出版されていました。
「戦国時代のハラノムシ」と「虫の知らせ」です。
もちろんすぐに購入です。
「針聞書」とは400年前の戦国時代に大阪の茨木あたりに住んでいた二介という人物によって書かれた鍼(針)の秘伝書です。
内容は病気別に治療法として、鍼、灸の位置や打ち方、漢方薬の種類を細かく記しています。
何よりユニークなのはその病気の原因を不思議な虫で表しているのです。
その数63あります。
今でこそ我々はレントゲン、CT、MRI、体内カメラで病気の状態、顕微鏡で病気の原因を知ることができますが、何もない400年前の人達の病気に対する考えを垣間見ることができる、貴重な書です。
それでは一部を紹介します。
1肺積
 肺積(はいしゃく)
 棲息域 肺。右の肺に生まれて胸先へと
      移動する。
 特徴  右向きの小さい方が幼虫で、
      大きな方が成虫
 病状  匂いを嫌がるが、生臭い悪臭は
      好む。性格は悲観的になる。
 治療  鍼術はこの上なく柔軟に浅く刺す。

 





2腎積
  腎積(じんしゃく)
  棲息域 腎臓。ヘソの下。
  特徴  イノシシに似ている。
       体内を猪突猛進する。
  病状  顔や体が黒く、塩辛いものを好む。
       口臭はひどく腐敗臭が漂う。
  治療  鍼術のコツは色々あり、ひとことでは
       伝えきれない。



   




3肝積
  肝積(かんせき)
  棲息域 肝臓。左の脇腹に生まれて
       頭突起をしながら攻め登る。
  特徴  女性の乳のような形をしていて、
       2本の長いヒゲをはやしている
  病状  怒りで顔が青ざめ、すぐに
       人を怒鳴りつける。
  治療  鍼は左わき腹の本体に刺し、
       そのあと背骨を刺す。









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  脾の聚(ひのじゅ)
  棲息域 脾臓
  特徴  岩石のような格好、口がでかい。
  病状  この虫が体内を転げまわると、
       足元がぐらつき転倒する。
  治療  鍼術のコツは口づてに教える。









5肺虫
  肺虫(はいむし)
  棲息域 普段は肺にいるが、たまに体外に
       飛んでいく。
  特徴  真っ赤な顔は3つの股の口で舌の
       ような尻尾がある。
  病状  肺から抜け出し迷子になって
       帰ってこないと、とりつかれて
       いる人は死ぬ。







6陰虫
 陰虫(かげむし)
 棲息域 男女の陰部
 特徴  男女和合の時突然、男女のそれ
      ぞれの隠部に湧いて出る。
      女性は赤い経血を出し、男性は
      白い精液を出すが、ともに虫が
      口から 吐き出したものである。
      和合の際、男の虫と女の虫が
      ハリガネのような足でお互いに
      絡みつき離れなくなる。
 病状  しょっちゅうインランな気持ちが
      起こり、いつもムラムラしている。
 治療法 口づてに教える。


7蟯虫
 蟯虫(ぎょうちゅう)
 棲息域 男女の和合で幼虫が宿るので
      陰部と推定される。
 特徴  申の夜、ヒトの体内から抜け
      出し、閻魔大王に悪行を報告する。
 病状  庚申の夜に男女のちぎりを交わ
      すと、この虫の幼虫を宿して
      しまう。すると天罰の病を患い
      死んでしまう。
 対処法 徹夜で庚申待をして虫の脱出を防ぐ。
      その晩はちぎりを控えて幼虫を宿さ
      ないように予防するしか方法は無い


8悪虫
  悪虫(あくちゅう)
  棲息域 脾臓
  特徴  凶悪な虫で、鋭利な6本の爪で
       取り付いた人の脾臓に
       しがみつく。
  病状  取り付いた人のご飯を横取りし、
       とりつかれた人は「痩せの
       大食い」になる。
  治療法 木香の根を内服する。 







9陰の亀積
   陰の亀積(いんのかめしゃく)
   棲息域 腹部。
   特徴  亀の様な体に白蛇状の虫が
        まとわりついている。
   病状  取り付いた人を死なせた後、
        長い時間が経ってから
        腹の内部から這い出す。
   治療法 箒草を食事にあえて食べる。








10耳虫
   耳虫
   棲息域 耳と心臓を行ったり来たりする。
   特徴  長い耳があり、蛇の様な胴体で
        クネクネ移動する。
   病状  水と冷たいものを好み、湯と温か
        いものを嫌う。
   治療法 キク科のオケラの根茎とサルノ
        コシカケの菌茎で消滅する。







11脾臓の笠虫
 脾臓の笠虫(ひぞうのかさむし)
 棲息域 脾臓
 特徴  頭に真っ赤な笠をかぶり、胴体
      には毛が生え、尾は二股。
 病状  虫の笠が食べ物の通りを邪魔する
      ため、血色は悪くなり、激痩せ、
      激太りになる。
 治療法 セリ科のアギとウコンの茎根を
       服用する。








12腰抜の虫
   腰抜の虫(こしぬけのむし)
   棲息域 腰
   病状  激痛で腰が抜け、冷や汗を垂らす。
   治療法 木香と甘草を内服する。













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   気積(きしゃく)
   棲息域 胃袋と推定される。
   特徴  顔は三つ股の口で、尻尾が生えて
        いる。油物が大好きである。
   病状  精力絶倫となって色事を好む
        様になる。
   治療法 虎のハラワタを食らう。








この書は当時の人々が人間の心と体を支配する病魔をイメージした病魔を絵にし、その解説と治療法を記した医学書なのです。
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このイメージは単なる想像上の産物ではなく、当時の誰しもが本当に存在すると信じていたことです。
そしてその想像力の素晴らしさに脱帽です。

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気になる話 その14(ナマハゲ)

サンチ−2塔028
ナマハゲには昔から興味がありました。
そしてついにナマハゲの旅が実現しました。
なんとその3ヶ月後にナマハゲはユネスコの世界無形文化遺産に「来訪神」のひとつとして提案されたのです。
実にめでたい。登録されれば良いな。
ナマハゲとは男鹿半島周辺で行われてきた年中行事、あるいはその行事において、仮面をつけ藁の衣装をまとった神の使いを指すとのことです。
ナマハゲの行事は江戸時代には行われていたようで、写真は江戸時代の紀行家である菅江真澄が記した「牡鹿乃寒かぜ」でナマハゲについて書かれています。
江戸時代の紀行家である菅江真澄が記した「牡鹿乃寒かぜ」
大晦日の晩、それぞれの集落の青年たちがナマハゲに扮して、「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」「ここの家の嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら地域の家々を巡ります。
男鹿の人々にとってナマハゲは、怠け心を戒め、無病息災・田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす、年の節目にやってくる来訪神です。
ナマハゲを迎える家では、昔から伝わる作法により料理や酒を準備して丁重にもてなします。
男鹿市内の「ナマハゲ行事」は、かつて小正月に行われていましたが、現在は12月31日の大晦日に行われています。
ナマハゲの意味は冬、囲炉裏で長く暖をとっていると、手足に火型(火斑)ができます。
これを方言で「ナモミ」と言いますが、怠け心を戒めるための「ナモミ剥ぎ」が「ナマハゲ」になったと言われています。
なまはげの持ち物は
1)出刃包丁と御幣
「ナモミ」を剥ぎ落とすための「出刃包丁」や地域によっては、神のしるしとしての「御幣(ごへい)」を付けた杖を手に 持って巡ります。
2)面
 木の皮、木の彫刻、ザルに紙を貼ったもの、紙粘土など様々な素材が使われています。最近はプラスチック製や地元の木 彫師による面も多く使われるようになりました。
3)ケデ
 ワラ製のミノ状にした衣装。面とともに神に扮する象徴的な衣装です。ケダシ、ケンデ、ケラミノなどともいいます。
4)ハバキ
 ワラで編んだ脛(すね)あて。これを着けるのは他所から来ることを意味します。
5)わらぐつ
 雪中、遠くから来るためのワラ製の靴。
それではナマハゲの知識を十分つけたところでいよいよナマハゲ巡りです。
私は飛行機で秋田空港まで行き、レンタカーで回ります。
ファーストコンタクトは秋田空港です。
1空港
男鹿半島に向かう道に巨大ナマハゲ発見です。
男鹿総合案内所の前です。
2案内所
そしてナマハゲ伝説の赤神神社五社堂へ向かいます。
手前の門前にも巨大ナマハゲがあります。
3門前
五社堂は鬼が作ったという999段の長い石段をヒーヒー言いながら登ります。
すると重要文化財の五棟の社堂が見えてきます。
4五社堂
祀られているのは5匹のナマハゲで両親と3人の子供と言われています。
次はハイライトの「なまはげ館」へ行きます。
途中素敵なナマハゲのオブジェがあります。
5オブジェ
6オブジェ
「なまはげ館」はモダンで素敵な建物です。
7なまはげ館
中はもうナマハゲだらけでナマハゲずきにはたまりません。
男鹿のナマハゲ勢揃いです。
8なまはげ館
9なまはげ館
10なまはげ館
11なまはげ館
そして隣の「なまはげ伝承館」では真山地区のなまはげをリアルに体験できます。
12伝承館
家に入るところから出て行くところまで、ナマハゲの動作には一つ一つ昔からのしきたりがあります。
ナマハゲと主人の問答が最高です。
13伝承館
14伝承館
この伝承館は本物の古い民家を移築したものでとても雰囲気があります。
私は秋に行きましたが、外はしんしんと雪が降っているような錯覚を覚えました。
少し先にある真山神社はナマハゲゆかりの神社で、大晦日真山地区のナマハゲはここからスタートします。
15真山神社
ナマハゲの旅はこれで終わりです。
今夜の宿、男鹿温泉に向かいます。
男鹿温泉郷の入り口では大きなナマハゲが歓迎してくれます。
16男鹿温泉
悲しいことにナマハゲは核家族化した若い人たちに人気がなく、衰退傾向の一途をたどっています。
地元が補助金を出しても効果がありません。
ユネスコの世界無形文化遺産に登録されることで知名度が広がり、多くの人たちが関心を持ち、この行事が少しでも長く存続することを祈るばかりです。
ナマハゲ
「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」

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気になる話 その13(大谷光瑞)

サンチ−2塔027
今回は西本願寺第22代門主大谷光瑞のお話です。
とても興味のある人物です。1大谷光瑞
『大谷光瑞は1876(明治9)年西本願寺の第21代門主明如上人の長男として生まれる。
9歳の時に得度、23歳の時に大正天皇の皇后の姉、九条籌子と結婚する。
2大谷籌子
学校で受けた教育は1886年から1890年の4年間だけでほとんど側近者(前田慧雲)による家庭教育と読書勉学である。
28歳の時父光尊の死去により、本願寺住職、管長、家督を相続し、爵位を継いだ。
1899年から海外旅行が始まる。
中国、スリランカ、インドを経て1900年イギリスに到着。
宗教制度並びに宗教伝道事業を研究する為にロンドンに留学。
3大谷光瑞
同行の僧もケンブリッジやベルリン大学に留学させた。
ちょうどその頃ヨーロッパでは中央アジアブームが起こっていた。
ロシアやイギリス、スエーデンの探検家が続々新発見をする。
大谷光瑞はこれら西欧の遺物や古文書の収集には疑問を持ち、仏教人の立場から仏教的探検を志す。
5大谷光瑞
そうして帰途を利用して第一次西域探検隊(大谷探検隊)を結成して自らも参加し、1903年に帰国する。
その後も1914年まで3回にわたり行われた。
4大谷光瑞
1908年六甲山麓に伊東忠太設計の二楽荘を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための私塾である武庫中学園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。教育・文化活動の拠点とした。
9大谷光瑞
法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣し海外伝道も積極的に進めたが、このことにより強度の神経衰弱になる。
静養のためインド・ヨーロッパ旅行へ出かける。
6大谷光瑞
第三次大谷探検隊をはじめとする教団事業の出費がかさみ、大谷家の負債が表面化するとともに、教団の疑獄事件のため法王を辞任し大連に引退する。1945年膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留された。
1947年帰国し、翌年別府にて逝去。
当時西本願寺は末寺13000、信徒1000万人、この頂点に君臨し全国から優秀な人材を集め探検隊を組織する。
またアジア各地に別荘を建てた。
7大谷光瑞
二楽荘の他、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設け、そこを拠点として農園経営や子弟教育など数々の事業を手がける。
西本願寺の一年分の予算が京都市の予算と同じぐらいで、その20数年分を浪費してしまう。』
私が大谷光瑞に興味を持ったのは大谷探検隊と二楽荘です。
丁度河口慧海の「チベット旅行記」に夢中になっている時で、中央アジアにも関心があった時です。
そして写真で見た二楽荘です。
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懇意の建築家の伊東忠太と作り上げた傑作です。
伊東忠太も最高の施主を持ち最大限実力を出し切ったと思われます。
建設費は17万円、総敷地面積は24万6000坪でインド・イスラム風の外観を持ち、部屋はインド室、イギリス室、中国室、アラビヤ室など各国風に作られ、そこに探検で持ち帰った品、ヨーロッパから持ち帰った品などが飾られていました。
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別荘までの斜面にはケーブルカーを設置し、温室、果樹園、私塾の学校(現甲南大学)、印刷所、測候所なども造らました。
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チベット人の僧正、モンゴル人の学者、中国人のコック、英国人のボーイを雇い住まわせました。
この自然の中で独特の教育と事業を試み、世界を語る大谷光瑞は二楽荘そのものでした。
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気になる話 その12(ヘンリー・ダーガー)

サンチ−2塔026
以前ある美術雑誌で「ヴィヴィアン・ガールズ」の挿絵を見てとても興味を持ちました。
この絵は正式なタイトル「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ―アンジェリニアン戦争の嵐の物語」という小説の挿絵です。
ヘンリーダーガー3
普通は「非現実の王国で」と呼ばれ、小説も挿絵もヘンリー・ダーガーと言う人が書いていることがわかりました。
ストーリは子供奴隷を使役するグランデニアという国と、ヴィヴィアン・ガールズ率いるキリスト教軍が戦うという戦史ものです。
グランデニアでは子供たちは親から引き離され、過酷な労働を強いられ、牢獄に監禁され、虐待されており、その解放を目指し、グランデニアと戦うのが7人の少女ヴィヴィアン・ガールズです。
ヘンリーダーガー4
非現実の世界では、あちこちに戦乱があり、ヴィヴィアン・ガールズはブレンギグ・ロメニアン・サーペンツ(通称ブレンゲン)という異形の怪物に助けを借りながら転戦していきます。
小説は1万5千ページを超える世界で最も長い長編小説ですが、全体をつなぐプロットはほとんど見られません。
ひたすらヴィヴィアン・ガールズを巡る冒険と戦いがくりかえされます。
ヘンリーダーガー5
素晴らしいのは小説ではなく挿絵です。
この絵を描いたヘンリー・ダーガーとはどんな人なのでしょうか。
1892年シカゴで生まれ、母は4才の時に亡くなり、父は体調がすぐれず、ヘンリーはカトリックの少年施設で過ごします。友人とコミュニケーションがとれず、12才の時に知的障害者の施設に移されます。
ヘンリーダーガー11
16才で施設を脱走し、260kmを歩いてシカゴに戻り、聖ジョゼフ病院の掃除人として働き始めます。
19才ので「非現実の王国で」の執筆を始めます。
73歳の時、掃除人の仕事を強制的にやめさせられ、できた時間で自伝を執筆します。
80才で病気のため救貧院に入り、翌年亡くなります。
ヘンリーダーガー2
親類も友人もなく、雑役夫として働いた病院と教会のミサを行き来するだけの貧しい生活でした。
そして死後、アパートの大家が荷物を片付けようと彼の部屋に入り目にしたものはタイプライターで清書された1万5145ページの戦争物語『非現実の王国で』とそのために描かれた300余点の大判の挿絵でした。
ヘンリーダーガー
ヘンリーはそこら中のごみ捨て場から新聞、雑誌、漫画、広告、を持ち帰り、必要な部分を切り抜きスクラップします。
そして必要なものをトレースしてさらに紙に転写します。
そうして「非現実の王国で」の挿絵が完成します。
ヘンリーダーガー6
ヘンリーは「アウトサイダー・アートの第一人者」と表現されることが多いいのですが、私がヘンリーを知った時は「アール・ブリュット」の代表的作家と呼ばれていました。
アール・ブリュット」とはフランス人画家ジャン・デュビュッフェが体制に叩きつけた美術の解放宣言で調整や加工されていない生の芸術のことです。
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アウトサイダーというと60年代、高校の先生が薦めてくれたコリン・ウイルソンの「アウトサイダー」を思い出し、当時流行した社会常識にとらわれない独自の思想を持った一匹狼的な人達を想像してしまいます。
芸術にインサイド、アウトサイドという基準をつけるのは如何なものかと思い「アウトサイダー・アート」という言葉は好きではありません。
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仕事と教会とゴミあさりの往復以外部屋に閉じこもり、60年間書き続けた彼の王国は誰にも知られずに焼却される予定でした。
ヘンリーダーガー9
それが世界中に広がり絶賛されて本にまでなりました。
人付き合いの嫌いな彼はどう思っているのでしょうか。
ヘンリーダーガー10
ヴィヴィアン・ガールズは無敵です。

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気になる話 その11(河口慧海)

サンチ−2塔024
1988年8月にチベット行きが決まったその半年前、河口慧海の「チベット旅行記」にめぐり合いました。
カンボジアへ行けない私の興味はチベットに移り、チベットに関連する書籍を探している時に見つけました。
英訳もされ世界で一番優れた旅行記と世界的に評価されていました。
明治37年に出版された旅行記が役に立つのかと疑問を持ちつつ読み始めましたら、もう止まりません。
文庫本5冊一気に読んでしまいました。
そして慧海フリークになってしまいました。
いまでもこれ以上面白いノンフィクションはありません。
慧海1
慧海は黄檗宗の僧侶ですが漢訳の仏典の正確さに疑問を抱き、チベット語原典の研究を志してチベットへ向かいます。
『明治30年6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへいきダージリンのチベット学校で1年間チベット語と風俗をまなぶ。
慧海3
当時鎖国状態のチベット入国は非常に困難で中国人としてネパールから入国することにする。
ネパールのツァーラン村に滞在し1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。
新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。
村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。
慧海4
同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。
白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。
慧海5
チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。
たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。
次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる。
ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。
1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。
親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。
慧海8
通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
1903年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。』
以上が概要ですが慧海の類まれな文書力、死が迫っているのに淡々と状況を認識する洞察力、信じられない行動力でグイグイ読者を惹きつけます。
その根底には深く仏教に帰依している、自分は生かされているという信心だと思います。
そして素晴らしいのは自然の描写だけではなく、人々が暮らす村々の習慣、風俗などを細かく書き綴っていることです。
これが貴重な資料となりました。
さらに、なんと挿絵も自分で描いているのです。
この挿絵が味があり、まるで慧海と一緒に旅している感覚になります。
ラサで慧海の素性がバレそうになる件はハラハラドキドキです。
慧海2
私が好きなのは、ネパールのドルポからクンラを抜けマナサロワール湖から、カイラスを巡礼するところです。
まだカイラス巡礼が日本では一般的ではなくカイラスに関する資料が全くありませんでした。
カイラスというのはインドでの呼び名でシヴァが住む聖なる山です。
したがってインド側からヒンドゥー教徒が巡礼した話はありました。
私の頭の中はカイラス巡礼で一杯になりました。
そしていよいよ10日間のチベット旅行です。
結果はラサ1日目、高山病でダウン。
詳しくは巡礼記03チベットを読んでくれろ。

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