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気になる話 その13(大谷光瑞)

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今回は西本願寺第22代門主大谷光瑞のお話です。
とても興味のある人物です。1大谷光瑞
『大谷光瑞は1876(明治9)年西本願寺の第21代門主明如上人の長男として生まれる。
9歳の時に得度、23歳の時に大正天皇の皇后の姉、九条籌子と結婚する。
2大谷籌子
学校で受けた教育は1886年から1890年の4年間だけでほとんど側近者(前田慧雲)による家庭教育と読書勉学である。
28歳の時父光尊の死去により、本願寺住職、管長、家督を相続し、爵位を継いだ。
1899年から海外旅行が始まる。
中国、スリランカ、インドを経て1900年イギリスに到着。
宗教制度並びに宗教伝道事業を研究する為にロンドンに留学。
3大谷光瑞
同行の僧もケンブリッジやベルリン大学に留学させた。
ちょうどその頃ヨーロッパでは中央アジアブームが起こっていた。
ロシアやイギリス、スエーデンの探検家が続々新発見をする。
大谷光瑞はこれら西欧の遺物や古文書の収集には疑問を持ち、仏教人の立場から仏教的探検を志す。
5大谷光瑞
そうして帰途を利用して第一次西域探検隊(大谷探検隊)を結成して自らも参加し、1903年に帰国する。
その後も1914年まで3回にわたり行われた。
4大谷光瑞
1908年六甲山麓に伊東忠太設計の二楽荘を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための私塾である武庫中学園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。教育・文化活動の拠点とした。
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法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣し海外伝道も積極的に進めたが、このことにより強度の神経衰弱になる。
静養のためインド・ヨーロッパ旅行へ出かける。
6大谷光瑞
第三次大谷探検隊をはじめとする教団事業の出費がかさみ、大谷家の負債が表面化するとともに、教団の疑獄事件のため法王を辞任し大連に引退する。1945年膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留された。
1947年帰国し、翌年別府にて逝去。
当時西本願寺は末寺13000、信徒1000万人、この頂点に君臨し全国から優秀な人材を集め探検隊を組織する。
またアジア各地に別荘を建てた。
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二楽荘の他、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設け、そこを拠点として農園経営や子弟教育など数々の事業を手がける。
西本願寺の一年分の予算が京都市の予算と同じぐらいで、その20数年分を浪費してしまう。』
私が大谷光瑞に興味を持ったのは大谷探検隊と二楽荘です。
丁度河口慧海の「チベット旅行記」に夢中になっている時で、中央アジアにも関心があった時です。
そして写真で見た二楽荘です。
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懇意の建築家の伊東忠太と作り上げた傑作です。
伊東忠太も最高の施主を持ち最大限実力を出し切ったと思われます。
建設費は17万円、総敷地面積は24万6000坪でインド・イスラム風の外観を持ち、部屋はインド室、イギリス室、中国室、アラビヤ室など各国風に作られ、そこに探検で持ち帰った品、ヨーロッパから持ち帰った品などが飾られていました。
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別荘までの斜面にはケーブルカーを設置し、温室、果樹園、私塾の学校(現甲南大学)、印刷所、測候所なども造らました。
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チベット人の僧正、モンゴル人の学者、中国人のコック、英国人のボーイを雇い住まわせました。
この自然の中で独特の教育と事業を試み、世界を語る大谷光瑞は二楽荘そのものでした。
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気になる話 その12(ヘンリー・ダーガー)

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以前ある美術雑誌で「ヴィヴィアン・ガールズ」の挿絵を見てとても興味を持ちました。
この絵は正式なタイトル「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ―アンジェリニアン戦争の嵐の物語」という小説の挿絵です。
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普通は「非現実の王国で」と呼ばれ、小説も挿絵もヘンリー・ダーガーと言う人が書いていることがわかりました。
ストーリは子供奴隷を使役するグランデニアという国と、ヴィヴィアン・ガールズ率いるキリスト教軍が戦うという戦史ものです。
グランデニアでは子供たちは親から引き離され、過酷な労働を強いられ、牢獄に監禁され、虐待されており、その解放を目指し、グランデニアと戦うのが7人の少女ヴィヴィアン・ガールズです。
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非現実の世界では、あちこちに戦乱があり、ヴィヴィアン・ガールズはブレンギグ・ロメニアン・サーペンツ(通称ブレンゲン)という異形の怪物に助けを借りながら転戦していきます。
小説は1万5千ページを超える世界で最も長い長編小説ですが、全体をつなぐプロットはほとんど見られません。
ひたすらヴィヴィアン・ガールズを巡る冒険と戦いがくりかえされます。
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素晴らしいのは小説ではなく挿絵です。
この絵を描いたヘンリー・ダーガーとはどんな人なのでしょうか。
1892年シカゴで生まれ、母は4才の時に亡くなり、父は体調がすぐれず、ヘンリーはカトリックの少年施設で過ごします。友人とコミュニケーションがとれず、12才の時に知的障害者の施設に移されます。
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16才で施設を脱走し、260kmを歩いてシカゴに戻り、聖ジョゼフ病院の掃除人として働き始めます。
19才ので「非現実の王国で」の執筆を始めます。
73歳の時、掃除人の仕事を強制的にやめさせられ、できた時間で自伝を執筆します。
80才で病気のため救貧院に入り、翌年亡くなります。
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親類も友人もなく、雑役夫として働いた病院と教会のミサを行き来するだけの貧しい生活でした。
そして死後、アパートの大家が荷物を片付けようと彼の部屋に入り目にしたものはタイプライターで清書された1万5145ページの戦争物語『非現実の王国で』とそのために描かれた300余点の大判の挿絵でした。
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ヘンリーはそこら中のごみ捨て場から新聞、雑誌、漫画、広告、を持ち帰り、必要な部分を切り抜きスクラップします。
そして必要なものをトレースしてさらに紙に転写します。
そうして「非現実の王国で」の挿絵が完成します。
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ヘンリーは「アウトサイダー・アートの第一人者」と表現されることが多いいのですが、私がヘンリーを知った時は「アール・ブリュット」の代表的作家と呼ばれていました。
アール・ブリュット」とはフランス人画家ジャン・デュビュッフェが体制に叩きつけた美術の解放宣言で調整や加工されていない生の芸術のことです。
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アウトサイダーというと60年代、高校の先生が薦めてくれたコリン・ウイルソンの「アウトサイダー」を思い出し、当時流行した社会常識にとらわれない独自の思想を持った一匹狼的な人達を想像してしまいます。
芸術にインサイド、アウトサイドという基準をつけるのは如何なものかと思い「アウトサイダー・アート」という言葉は好きではありません。
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仕事と教会とゴミあさりの往復以外部屋に閉じこもり、60年間書き続けた彼の王国は誰にも知られずに焼却される予定でした。
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それが世界中に広がり絶賛されて本にまでなりました。
人付き合いの嫌いな彼はどう思っているのでしょうか。
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ヴィヴィアン・ガールズは無敵です。

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気になる話 その11(河口慧海)

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1988年8月にチベット行きが決まったその半年前、河口慧海の「チベット旅行記」にめぐり合いました。
カンボジアへ行けない私の興味はチベットに移り、チベットに関連する書籍を探している時に見つけました。
英訳もされ世界で一番優れた旅行記と世界的に評価されていました。
明治37年に出版された旅行記が役に立つのかと疑問を持ちつつ読み始めましたら、もう止まりません。
文庫本5冊一気に読んでしまいました。
そして慧海フリークになってしまいました。
いまでもこれ以上面白いノンフィクションはありません。
慧海1
慧海は黄檗宗の僧侶ですが漢訳の仏典の正確さに疑問を抱き、チベット語原典の研究を志してチベットへ向かいます。
『明治30年6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへいきダージリンのチベット学校で1年間チベット語と風俗をまなぶ。
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当時鎖国状態のチベット入国は非常に困難で中国人としてネパールから入国することにする。
ネパールのツァーラン村に滞在し1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。
新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。
村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。
慧海4
同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。
白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。
慧海5
チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。
たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。
次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる。
ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。
1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。
親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。
慧海8
通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
1903年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。』
以上が概要ですが慧海の類まれな文書力、死が迫っているのに淡々と状況を認識する洞察力、信じられない行動力でグイグイ読者を惹きつけます。
その根底には深く仏教に帰依している、自分は生かされているという信心だと思います。
そして素晴らしいのは自然の描写だけではなく、人々が暮らす村々の習慣、風俗などを細かく書き綴っていることです。
これが貴重な資料となりました。
さらに、なんと挿絵も自分で描いているのです。
この挿絵が味があり、まるで慧海と一緒に旅している感覚になります。
ラサで慧海の素性がバレそうになる件はハラハラドキドキです。
慧海2
私が好きなのは、ネパールのドルポからクンラを抜けマナサロワール湖から、カイラスを巡礼するところです。
まだカイラス巡礼が日本では一般的ではなくカイラスに関する資料が全くありませんでした。
カイラスというのはインドでの呼び名でシヴァが住む聖なる山です。
したがってインド側からヒンドゥー教徒が巡礼した話はありました。
私の頭の中はカイラス巡礼で一杯になりました。
そしていよいよ10日間のチベット旅行です。
結果はラサ1日目、高山病でダウン。
詳しくは巡礼記03チベットを読んでくれろ。

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気になる話 その10(スウィンギングロンドン)

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ロンドンは1950年から1960年中頃まで、世界中の若者の発信基地でした。
中心はカーナビーストリートとチェルシーのキングスロードです。
                 カーナビーストリート
1カーナビーストリート2
                 キングスロード
2キングスロード2
主に2つのグループの勢力争いでもありました。
1つは「ロッカーズ」でロックンロールを愛し、リーゼントでオートバイに跨がっています。
かたや「モッズ」でR&Bを愛し、長髪でスクーターに乗っています。
「モッズ」の2大グループはイーストエンドの「スモール・フェイセス」、ウエストエンドの「ザ・フー」です。
                 スモール・フェイセス
3スモールフェイセズ
                  ザ・フー
 4フー
1963年にテレビで「レディ・ステディ・ゴー」が始まりモッズ全盛になります。
何もないカーナビーストリートがファッショナブルに生まれ変わったのは、「キング・オブ・カーナビーストリート」の異名を持つデザイナー、ジョン・スティーヴンによるところが最も大きいでしょう。
全盛期のカーナビーストリートで、自分の店を6店舗も所有し、若者文化全体を先導していました。
マリー・クワントが「バザールBAZAAR」と言うブティックからトゥイッギーを使ってミニスカートを発信しました。
                  トゥイッギー
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もう一人、重要なデザイナーは「ビバ(BIBA)」をオープンさせたバーバラ・フラニッキです。
オリエンタリズムやゴシック様式の要素を取り入れたスタイルで、若者の人気を得るようになります。
ヘアーデザイナーのヴィダル・サスーンは活動的で自立した女性にふさわしい「ボブ」を流行らせました。
この3人は新しい女性の美を追求しました。
                 クワントとサスーン
5クゥワントとサスーン
最先端の女性はボブヘアーにギンガムチェックのミニスカート、白のオーガンジー素材の襟がついたカッタウェイショルダーのトップス、そしてクレージュの白いブーツと言う出で立ちです。
写真家が注目されたのもこの頃です。
御三家はデイヴィッド・ベイリー、テレンス・ドノヴァン、ブライアン・ダフィーでモデルはジーン・シュリンプトン、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、マリアンヌ・フェイスフル、ジェーン・バーキン、トゥイッギー達です。
                 ジーン・シュリンプトン
7ジーン・シュリンプトン
                 パティ・ボイド
6パティボイド
映画では写真家のデイヴィッド・ベイリーをモデルにしたミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」、リチャード・レスターの「The Knack」、マイケル・ケインとジェーン・アッシャーの「アルフィ」、音楽映画「ポップ・ギア」などです。
                  The Knack
9ナック
                   ALFIE            
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スウィンギングロンドンの象徴となったのがユニオンジャックです。
それは愛国心ではなくそれ自体がとてもクールでかっこ良かったからです。
T−シャツや上着、ミニクーパーなどにも描かれていました。
もちろんまだミチコ・コシノもカンサイ・ヤマモトもいません。
当時のイギリスの香りを運んでくれたのは、ズズこと安井かずみと加賀まりこでした。
                  安井かずみ
12安井かずみ
                  加賀まりこ
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そしてスパイダーズも早い段階で渡英しました。
何と言ってもミニタリールックです。
                  スパイダーズ
14スパイダーズ
日本のグループ・サウンズは全員ミニタリールックです。
なんて素敵な時代だったのでしょう。
パリでもなく、ニューヨークでもなく、東京でもなく、ロンドンなのです。
同じ様な郷愁を感じる場所は同じイギリスの植民地の香港とインドです。
60年代の香港とボンベイに行ってみたかった。
ロンドン、ロンドン、楽しいロンドン、みんなのロンドン
13ロンドン
 
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気になる話 その9(岡倉天心)

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私が敬愛する日本人の1人が岡倉天心です。
「東洋の理想」の冒頭で述べられた「Asia is one」アジアは1つであるという言葉に触発され、私のアジア巡礼が始まったと言っても過言ではありません。
天心は大きな転換期の明治時代、すべての骨格を西欧を基準とした西欧至上主義の中で、日本及びアジアの行く末について憂い、独自の主張を世界に向けて発信しました。
しかし「Asia is one」と言う言葉は天心没後に日本軍部の大東亜共栄圏という植民地政策に利用され、違う方向に一人歩きしてしまいました。
とても哀しいことです。
天心1
そして今、時代が天心を求めています。
福井の下級武士の父親は横浜に出て生糸を扱う商いを始めました。
何と父親はこの時代にあって英語の必要性を感じ英語塾に天心を通わせます。
東京外国語学校、東京大学卒業後文部省に勤務、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査します(1884年法隆寺夢殿を開扉し秘仏の救世観音をフェノロサとともに拝する)。
天心2
文化財保護を痛感し、適切な対策を提案します。
フェノロサと欧米視察旅行後、1890年東京美術大学(芸大)の初代校長になります。
しかし排斥され辞職しますが日本美術院を谷中に発足させます。
1901年インド訪遊しタゴール、ヴィヴェーカーナンダ達と交流します。
タゴールは詩人で思想家でアジア人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞しました。
天心7タゴール
インドでは非常に尊敬され生涯にわたって交友が続きました。
ヴィヴェーカーナンダは宗教家でラーマクリシュナの高弟であり西欧諸国の宗教、哲学を学び、ラーマクリシュナミッションを作りました。
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シカゴで行われた第1回世界宗教会議にヒンドゥー教代表として出席しました。
そして「すべての宗教は1つの真理に対する異なったアプローチである。それらは違いにより補い合う。1つの教義に真理は収まりきらない。多様な宗教の全体が真理である。」と演説し大成功をおさめ名声は広まりました。
ヴィヴェーカーナンダは親日家でインドの若者はイギリスではなく日本に留学した方が良いとまで言っています。
1904年天心はボストン美術館中国・日本美術部に迎えられます。
天心は英文による著作物「The Book of Tea(茶の本)」、「The Ideals of the East(東洋の理想)」、「The Awakening of Japan(日本の覚醒)」を出版します。
一方日本美術院を別荘があった茨城県五浦に移します。
天心5
以後五浦とボストンを往復することになります。
1913年体調がすぐれず、アメリカから帰国した天心は静養のために行った新潟県赤倉温泉の山荘で永眠いたしました。
情熱家でもあった天心は1888年パトロンであった文部官僚の男爵九鬼隆一の妻、波津子と恋に落ちます。
当時波津子は隆一の子をみごもっていました。
また1912年ボストンに向かった天心は途中インドでタゴールの親戚の女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会い、恋に落ちます。
以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心が亡くなるまでの1年間交わされました。
天心6
茨城県五浦の天心記念五浦美術館へ行くと2人の往復書簡を見ることができます。
とても風光明媚な所で、天心の家や墓,とても気に入っていた六角堂など見ながらの散策を御薦めします。
温泉もあり最後はアンコウ鍋で決まりです。
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